日本人嫌悪

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京王線電車切り付け、「ジョーカーに憧れて」。新しいヒーロー像の誕生

京王線の特急電車内で乗客を切りつけた24歳の男が語った言葉「ジョーカーに憧れてやった」


過去のヒーロー達は、強くてスマートでクールなキャラクターだった、そしてみんなそれに憧れた。
「強くなって、みんなを守るようなヒーローになりたい!」と。
でもそれは子供の時の拙い夢でしかなくて。
大人になって、現実を知って、「自分にはヒーローになれるような力も素質も無い、
そもそも守るべき者なんか存在しない」ということに気づく。

ただ目の前の現実を生きるために、お金を稼ぐしかない、自分が生きていくために必死になるしかない。
もしもこれが上手くできなかったら、自分はヒーローどころか惨めな負け犬になってしまう。
そして現実、成功した華やかな人間より失敗した惨めな人間の方が多い。
そうなってくると、失敗した惨めな人達の方が民衆になり、成功した一部の人間こそが悪になる。

そしてそこに望まれるヒーローが必要になる。

それは強くて爽やかなスーパーマンではなくて、惨めで悲しいジョーカーなのだろう。


以前はこの手のキャラクターは、惨めでダサくて、そして最後はヒーローに倒されてお終いという、あくまで敵役でしかない
決して主人公にもヒーローにもなれないキャラクターとしてしか描かれなかった、
だからそれはヒーローや憧れにはならなかった。

でも描き方を変えてしまって、その敵役にストーリーを持たせ、悲しい背景を持たせ、感情移入できるように描いた。
決してカッコよくもないけど、惨めで注目もされないけど。
それでも、空を飛ぶスーパーマンや必殺技を繰り出すマーヴェルヒーローズなんかよりもよっぽどリアリティーがあった。
それは空を飛んだり怪物を倒すキャラクターより簡単に感情移入できてしまった。


ジェンダーステレオタイプ”という物を最近耳にするようになった、要は性別における固定観念だ。
それと同じように”ヒーローステレオタイプ”という固定観念に囚われていたものが変化し始めたのではないのだろうか。

”ヒーロー”とは、強くて優しくてみんなを守るクールな存在。だったものが、
負け犬で惨めで遣る瀬無い者が、社会に、華やかな人間に復讐する存在へと。

それはとても身勝手で理不尽な感情なのかもしれない。

でもそもそも善と悪なんてとても曖昧な物で。
普段、対立している国の人間を殺したら、それはやっぱり罪になるけど、それが戦争になってしまうとヒーローへと一変してしまう。

善悪の基準なんて時代や情勢でまるで変ってしまう。元々身勝手な物なのだ。

 

スーパーマンは善の世界のヒーローなのかもしれない、けどジョーカーだって悪の世界のヒーローなんだ。